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作業とは・・・編集中R2・8・10

 作業とは・・・さまざまな書籍にいろいろな表現で書かれています。「日常生活内で行われるすべての行い」であり「個人にとって意味や意義のある行い」ということですが、要は仕事や趣味、過ごし方や取組など人間が行えるすべての行為を指し、一つの作業に対しても人それぞれによって意味や意義はさまざまであるということです。

 

作業療法と作業、定義やそれぞれよく語られている言葉でつなぐと、

 

「人々の健康と幸福の促進のために、対象にとって目的や価値を持つ生活行為に焦点を当てた治療、指導、援助である」となる。

 

 

 これを深読みすると、「対象の目的や価値を持つ生活行為」は「対象の健康と幸福の促進」につながるということになるのではないでしょうか?作業という「人々にとって目的や価値を持つ生活行為」が「人々の健康と幸福」であると、定義からは解釈できます。では、「人々にとって目的や価値を持つ生活行為」がどうして人の健康と幸福となるのか?これが理解できていないと、作業自体の意味や意義がピンとこなくても当然です。

 作業とは、言ってしまえば個々にとっては、個々として在ろうとするために行う行為であるのではないでしょうか?特に近い言葉としては拘りであったり、価値観であったり。ただ個々における作業は個々の人生の中で個々としての受け止めや認識の中で自分として在ろうとするために出来上がっていったものでもあるため、周囲との間でそれがうまく行えなかったり達成できなくなると、自己否定が強まるような体験になりかねません。そうなると、より「自分で在ろう」とする欲求が強まり、個々の「作業」への固執が強まるかもしれません。

 そして、個が個で在ろうとする状態になるほどに個としての「作業」に固執してしまうと、周りへの何らかの影響や、度合いによっては対立が生じます(これについては必ずしも固執する側のみがといった問題ではなく、周りとの間で起こることです。これ重要です)。こういった状況にまでなると、個で在りたいと思うことは自身としては大事なことなのに、自身と周りとの間での「障害」になりかねません。

 

 

 

「活動」と「参加」   もう少し考えてから書きなおします

 個人的には作業療法における「活動」と「参加」は、上記の「作業」のための手段と思っています。個人として完結して行える「活動」もあれば「参加」において必要となる「活動」もありますし、役割や所属として「参加」もあります。

 

衣食住の為でもあれば、自分としての何等かの価値や意味のために行う、それぞれ一つずつということもあれば重複するものもあるでしょう(特に仕事はこういうものかもしれません)。

 

ただ、活動や参加を行えば、個としての意義、意味を満たすことが出来るかもしれませんが、ただ漠然と「これをすれば~」ということはないでしょう。なぜなら個としての意義や意味、またその大きさや割合などは人それぞれだからです。

 

なので、対象それぞれのニードや拘りなどの理解の上で、対象がこれまで行ってきた活動や参加の意味を理解すること、今の活動や参加による対象への影響を理解することが重要です。対象のこれまでの活動や参加の意味を理解することは、その人がどのような人生を歩み、どう在ろうとしてきたか、そして自身としてどうだったかを理解することになります。それゆえ、これからの活動や参加を考えることはこれからその人がどうあることが出来るのかを考えることになりますし、それはこちらが勝手に思ってよいことではありません。当人の真のニードに直結するものでなければ、それはスタッフや周りにとっての都合によるものになりかねません。

 

ただ、ニードのための手段であっても、周り(生活圏や、社会、世界)の許容内という制限はあります。その中で当事者のニードを満たせる活動や参加の仕方を考えたりコーディネイトする=作業の提供こそが作業療法士の役割と思います。

 

 

障害とはどういうこと?

 ウィキペディアでの「障害」とは、「ものごとの達成や進行のさまたげとなること、また、さまたげとなるもののことである」となっています。我々作業療法士は、よく「障害」を持った方へのリハビリテーションを達成するための職種であると言われると思います。そして対象となる方々は、障害のために、より「自分らしく生きる」ことを妨げられたり低下したと感じている方々です(基本、「自分らしく生きる」ことは皆何かしら困難)。

 

 「自分らしく生きる」ことへの困難を感じている人は皆障害を抱えていると思いますので、障害とは当たり前のことかもしれません。ここではある程度リハ領域で言われる障害について語ります。障害の原因については受傷や疾患、先天的なものや精神構造的、受傷や経験の積み重なりなど多岐にわたり、また「いつから?」ということが難しい可能性もあります。障害は自身が生きる社会や生活圏内で自身が必要とされる機会を低下させたり自分から参加することへの不安や抵抗により参加し辛くさせます。それにより今の自身に価値を感じれなくなったり自身を肯定できず否定的に感じてしまう、人として不健康な状態にさせます。

 

 

 このような不健康で満足できない状態=自身が在りたい個であることに支障が生じている状態になると、人はその状態を改善、解消したくなるのではないでしょうか?(そう在りたくないから?)。

 そこで、人は自分なりの「作業」に固執し、自身の拘りを達成しようとしますが、ただでさえ周りとの関係や自身の資源など「制限」が生じる自身の「作業」である活動や参加の実行が、自身の機能や能力の制限により更に制限されます。

 つまり障害とは、当事者自身と周り(社会)それぞれの制限により生じるものといえます。よって、当事者自身と周りの、互いのキャパの変化によって障害の度合いも変化します。

 

 ここで「活動」や「参加」への制限や支障が個としての不健康であるように記しましたが、これらはただ行えれば個として健康であるとは限りません。たとえば活動や参加の制限に対して援助などにより実現できても、対象が必ずしも満足できるわけではありません。自身が主体的に低下したと感じてしまっている自身への価値が回復するわけではありません。かといって自身か感じたい価値の回復=自分で以前同様にできるようになることへの願いはそのまま時間と自身への負担になり、周りへの負担にもつながりかねません。

 

 

 

 

 

 

作業療法とは? 作業療法士とは?

 定義的なことはさておき、

個が「活動」や「参加」といった作業=自身として在るために行ってきたことへの制限が生じた方に対して、ニード=個として在りたいことを(再)実現出来るためにの支援を行うこと。ニード=個として在りたいことを理解すると同時に対象と対象の周りで実行できることを見出し、制限の中でも自身のニードを満たせることを当事者と考え、当事者のより良き人生に貢献する。

 と思っています。こういうことを行える専門職として資格をもらっているのが作業療法士ということかと思います。

 

 作業療法を行うもの「士」としては、対象の「作業」やニード、個として在りたい在り方を理解することが第一と思いますし、これがなくては「作業」で「療法」をするを「士」ではないと思います。

 

 個として在りたい在り方やそのために行っている「作業」に対しては、理解そのものはフラットかつ公平に行わなければならないと思っています。それが一番出来る職種として「作業」の名を冠しているわけですし、だから作業療法士なのです。

 

作業の使い方・・・すみません編集中

よく作業療法場面では様々な治療手技が用いられます。その中で「この作業をこう使えばこうなる」といった考えもあるかと思いますが、正解でも不正解でもあります。ここで重要なのは対象者の価値観や障害像をきちんと理解して用いているかということです。単に目の前の機能不全に対して維持や回復を図ることは対象者にとって意味はあるとは思いますが、ひょっとすると対象者は別のことを望んでいるかもしれません。治療者側の価値観やこだわりもあってもよいですが、対象者のための治療であるのであれば、対象者が何を望みどう生きていきたいか、そのために何に困っているかを理解すべきでしょう。

 また、活動や作業、治療手技が人にとってどのような意味や体験になるかをあらかじめ理解しておく必要があります。書籍や人から聞いた言葉をなぞるのではなく、自分を通して理解する(自身が実際に体験して感じたことやその理由)ことが重要です。そういったことの積み重ねと対象者へのこだわり、価値観、ニードなどへの理解や把握があって初めて適切に活動や作業、治療手技が選択できます。

 

しかし、それだけではまだ適切な作業や活動、治療手技の運用にはなりません。作業療法においては対象者に必要な体験が何かをきちんと考え、特定の作業をどう使いセラピストがどのような役割(存在)をとればよいかがきちんと考えることで、対象者にとって治療上有効な体験に繋げることができます。さらに効果は適切な体験を積み重ね、またセラピストが場合によっては対象者の般化を促す声掛けを行い、体験を経験と自己評価に繋げていく必要があります。またこういった動きがあることで、初めて対象者に対して自身の健全な部分を発揮出来たり希望を持って取り組める時間を提供することができるのではないのでしょうか?対象者が好きな作業や活動を用意(しかも元々職場にあるものだったり)したり、相手が機嫌よく参加してくれることはあくまで基本ですそれ以上を目指しましょう。

 

最低でも自身が患者さんの立場になって、自身の関わり方や作業の進め方が本当に相手にどう感じられるか考える必要があるでしょう。作業をやってもらったら必要な体験に繋げれるのであれば作業療法士でなくても活動や作業に精通している人で十分ということになります。他職種にそう思われないよう筆者も頑張りたいとおもいます。

 

 

 

障害者の望むことは?(まだまだ工事中)

↑こう聞かれると「社会復帰」「機能回復」(もっと×2出てくるでしょうが)といった言葉がすぐに出ると思いますし、ベクトル的には当たっているとは思います。しかしこれらが障害者と呼ばれる方々の行き着きたいことを表現したり伝えるには少し役不足に思います。

 

 そもそも障害者は社会的に妥当かつ個人で達成できる範囲での「自分らしく生きる」ことが自身の心身の機能障害のために損なったり不完全なものになり、今現在の自身の人生や生活に不全感を感じている方々です。よって大半はおそらく「自分として生きている」と感じれる生活を望んでいます。「就労」は自身の能力を発揮し、職場に価値のある人間であると感じれ、かつ収入という形で価値を形に変える手段でもあります。機能回復は自身を「できる」と感じにくくなった方々にとっては「できる」と感じれる自分を取り戻す行為であり就労に繋げるために必要となることが多いです。どちらも障害者にとっては自身の価値や意義を取り戻す「手段」であり、以前の自身の価値を取り戻したい、落ちぶれた自分でありたくない、前と同じように必要とされたいといった「自尊感情」「存在意義」に直結する行為です。だからこそ障害者はそれにこだわり、また障害者と呼ばれる方は個人の「できる」ことや就労などの価値を健常者と呼ばれる人たちよりはるかに理解している方と思います。

 さらに人間は、自尊感情=自身の価値を信じ肯定したい、必要とされたいといった感情に左右されがちだと思います。しかし筆者はそれに対して「自身の価値を否定されたくない」「不必要に思われたくない」といった、自身の存在を否定されたくないといった思いの裏返しではないかと思っています。望みが強い、確固たるニードを持っている方は、ひょっとすると満たされていない、拘らなければならない、そうでなければ自身を肯定できない=自身の存在意義を信じれなくなるもしくは否定といった思いにとらわれてしまうのではないでしょうか?つまり障害は「自分らしく生きれていない」という思いを生むものであり、障害者はこの思いから脱却したいのではと思います。

「できない」「悪い」といった思いを抱えてしまった人間の心の辛さ、これを個人として理解することが、リハビリテーションの意義や意味、障害を持つことの意味、患者さんの心を理解することになるのではと思います。

 

我々作業療法士は障害者、患者さんから学ぶことがたくさんあります。しかし一番学ばなければならないことは、人がどう生きたい、どうありたいかということではないでしょうか?作業療法に限らずリハビリテーションに携わる専門職はそれに応えることが存在意義であると感じます。

 

 

 

障害者の声に応えるということは?ただいま工事中・・・                              m(u_u)m

 障害者の望むことが筆者の思うように、自身を価値あるものとして感じることができ、且つ自身の価値を否定せずに生きたいと感じているのなら、作業療法士が治療としてすることの意味は、この障害者の思いに応えるということではないかと思います。

 

 就労や自立といった具体的な形にはつながらないのかもしれませんが、自身の価値を感じ、また肯定できるような過ごし方や生活は可能ではないかと思います。そのためには人が自身に感じる価値がどうして、どのような状況下で感じることができるのか、考える必要があります。

 

 能力を発揮し認めてもらうことは、有能でなければ無理なのか?人に尊敬されるのは周りに貢献されなければ無理なのか?周りに慕われるのは楽しい会話が出来なければだめなのか?・・・人が自身に、もしくは他者に価値や意義を感じるのはこのような数値的結果的に見てわかりやすく、優劣ともとれるようなものでしかないのでしょうか? 

 

 作業療法の評価では患者さんが出す結果のプロセスを重要視してるかと思います。筆者の学生に時代には「活動分析」という授業があり、活動のプロセスの理解を高める勉強がありました(今は基礎作業学とか?)。精神科ではそのプロセス内で患者さんが何と向き合い、どのような思いや気持ちが生じたかなどを見出そうとしてます(たぶん)。ここにこそ、作業療法士として関われる領域があり、また関わり方によっては患者さんが自身を認めていくことができます。

 

 

 

 たとえば作品に抱く感情に上手下手以外に、雰囲気というものがあります。この作品、なんかいいよねぇ」など思うことはありませんか?雰囲気は作品に使った材料が醸し出すところもありますが、製作者なりの工夫や手間など言葉で伝いづらいもので醸し出すこともあります。そういった所を人間は自身の経験から気付くこともあり、「頑張った感じがある」「一生懸命な感じがある」「気持ちがこもっている」など、漠然とですが言葉に出ることもあります。