良い実習地とは?それはつまり良い現場ではないか?まだまだ編集中ですが、H29.7.2編集しました。
学生の実習の感想として「バイザーがフレンドリー」とか、表面的にも「熱心」とか、「楽しかった」とか聞かれますが、そういったことは指導者の人柄や学生との関係における価値観など、指導者自身の人間性によるところも大きいと思います。しかしそれは「良い実習指導者」であり、よい実習地とは限りません。良い実習地とは、学生が作業療法士になる為に必要な気付きや学びが出来る実習地であるというです(まぁ、ここでは「実習地」と言ってますが、良い職場と思ってもらってもよいとおもいます)。
そういった実習地であるためには何が必要か?と聞かれると、いくらでも必要なことはあると思いますが、根幹部分は、やはりその現場に正しい作業療法を行う土壌があり、またそれを培おうとする、よりよい作業療法士であろうとする価値観が職場を満たしているということではと思います。そういった職場により良い価値観や意思を満たすには、もちろん個々の作業療法士の意思や気持ちがまず必要ですが、そういった意思や気持ちを持ち続けれる職場でなければなりません。つまり、個々がいくら頑張っても、それらが意味があり価値があると思える職場でなければ、個々のセラピストの意欲や希望は削がれるのではないでしょうか?
また職場内関係がフランクで、互いに思ったことが話し合える職場であったとしても、それだけだったらそれぞれの作業療法士が自身の思うままに主張や誇示をする場になりかねず、それは単なる自己満足や自己の正当性追求にしかなりません。また「いろんな研修に行っている」「研究をしている」など自己研鑽を頑張っている方々もいます。しかし、これも、学んだことを正しく受け止めれているか?自分が作業療法士として正しい向きを向いているか?を確認できなければ、先に言ったように自己満足や自己の正当性追求にしかなりません。個々の作業療法士がそれぞれ熱意や思いを以て頑張っていくことは必要ですが、職場にはある程度個々の作業療法士に示せるもの(作業療法観、リハビリテーション観)がなければならないのではないかと思います。
逆にこれがなければ、上司や先輩からの指示や指導や上司が部下と作業療法士として対等に意見のやり取が少ないということにもなりかねません。そのような現場では、作業療法士個々にとっては自身は頑張っているのか?自身の行いに意味があるのか?など迷いも出て、やりがいや意欲を左右しかねません。また正しいことを示されることも、過ちを指摘してもらうことも、つらい事や不安なことに指導や励ましがなければ、個々の療法士が自己満足や正当化(療法士主体の評価や治療)に傾いていくかもしれません。こういった現場では、学生のケーススタディ時にスタッフの意見の方向性にバラツキが大きくなるかもしれません。
また上司からのトップダウンが常態化していれば、部下はあまり上司に意見が言えず、ますます管理側と現場のスタッフとの軋轢は広がるかもしれません。こういった状態であれば、筆者が語ってきたことはより起こりやすくなるかもしれません。
それゆえ、上司や先輩といったポジションの方々は、自身の立場に甘んじることなく療法士としてはあくまで対等である姿勢を持ち、周りに言葉だけでなく「あってほしい現場人」としての姿を「示す」ことが必要ではないかと思います。それは一方的に押し付けになるのではなく周りが真似したいと思える作業療法観をもち、それに裏付けられた行動を示していくことではないかと思います。
それぞれに個性はありつつ、作業療法観が大きく外れてなく、個々と全の両立が図れている現場であること。そして先輩がきちんと後輩に示し、後輩がきちんと先輩に向かっていくことで、個と全体が正しい作業療法に向かっていく職場であることが、良い実習地としての条件ではないでしょうか?